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1/27(土)『風の波紋』小林 茂監督トークショー(前半)

この映画は「回復(Recover)」のような気がします。

1月27日(土)10:30-映画『風の波紋』上映後、小林 茂 監督をお招きしてトークショーを開催致しました。
風の波紋トークショー

ゲスト:小林 茂 監督(小林)
進 行:進 多賀彦…CINEMAChupkiTABATAスタッフ(-)

小林:みなさんこんにちは、本日は長い時間本当にありがとうございました。今日は、プロデューサーの長倉徳生さんもお越しいただいてます。

(長倉徳生さんが客席から立ち上がり、会場拍手)

-早速、私から質問させていただきます。今回、本編をお撮りになる際に、地元の方々との関係性をどういう方法で築かれて撮影に入られたのかお聞かせいただけますか?

小林:それを丁寧に言うと3時間位かかるので2、3分で説明します(笑)。僕は映画『阿賀に生きる』や『阿賀の記憶』の撮影を担当しましたが、その佐藤真監督が10年くらい前、急に亡くなりました。また、そのころ僕が人工透析を受けるようになり、鬱になったのもあって、映画づくりを半分諦めていました。2009年、本編にも出演されていますが、写真を通じた友だちの木暮茂夫さんのところへ行く機会がありました。木暮さんは松之山(現十日町)へ移住していたのです。「まぁよく来たね」というわけで、宴会まで開いてくれました。皆、山ぶどう酒を持って来てくれたり、蕎麦を打ってくれたりして…そして僕は翌朝6時くらいに目が覚めたんですけども、皆さん農作業が忙しくて、すっかり帰られてて、昨晩の宴会が幻だったように誰も居なくて(笑)そこでふらっと山を見ると鋭い夏の朝日が草木のしずくに当たって山全体が光っていました。生まれ故郷や子供時代を走馬灯のように思い起こしまして、その瞬間に「ここなら映画ができるんじゃないか」と思ったんですね。

まぁ、自分が生きたいがためにこの映画をつくるということがあったんだと思うんです。映画をつくりはじめたらゴールまでは死ねない(笑)だから1年でつくったら困るというのがあって、撮り始めて最初の1年までは、地元の人から「映画の調子はどうなの?」と聞かれたりしましたが、2年目くらいから何も言われなくなって(笑)

木暮さんは、自分が住んでるところの老人たちをカメラに収めてほしい気持ちがあったようで、色々な人たちをあちこち紹介していただきました。それから(映画に)出てくる人たちは、僕が住んでる長岡で一緒に飲むような仲間で、車で1時間くらいの距離があるんですけど、来てはワーっと飲んだり、蕎麦を持ってきてくれたり…そんな感じで彼らが来ると「匂い」が違うんですよね。「山の匂い」って言うんですかね?友達を撮ることになるので、そこが逆に難しかったです。最後に酔っ払い即興詩人が出て来ますけど(笑)あれはクランクイン前に皆が「面白いところに面白い人が居るから」って連れて行ってくれたんです。そしたら彼はあのような調子だったんですよ(笑)

風の波紋トークショー

(場内爆笑)

小林:これはもう映画に撮らなきゃな!って思ってたんですけど、なかなかスタッフとその尺八の高波敏日子さんとの予定が合わなくて、あのシーンを撮ったのは最後のほうでした。5年のうちの最後の方…雪も降っていないし、しょうがないなぁと思ってたら、そこが映画の神様の凄いところで、カメラを据えると急に雪が降りだして雰囲気が湧いてきて…(笑)

(場内爆笑)

小林この映画は僕からすると、「回復(Recover)」の映画のような気がします。皆さんも、生きるのが苦しい時にはこれを観て「生きてればいいや」と(笑)思っていただければと思います。

もうひとつは、『阿賀に生きる』は長いこと一軒の家を借りて撮っていたので、今回もそうしようと思ってたんですね。ところが撮影の途中で地震があったので困ってしまって…僕は地震をテーマに映画をつくるつもりはなくて、報道のように潰れた建物とか仮設暮らしとか、そういうのは撮らない!って決めてて。ただ、その場で起こるいろんなことと、1人が困ったときに周りはどうするんだろうか?ということはしっかり撮っておかなければならないと決めてました。ただ、映画にした際に、それがある種の出来事のひとつになるためには5年位必要だったと感じてます。今、彼ら(出演者)がこの映画を観たときに「こんなことがあったなぁ」となると思いますね。
7年前の3.11東日本大地震の翌日、3.12長野・新潟県境地震も、被害は相当大きかったんです。

-わかりました。それで5年ほどじっくり撮影される中で、村の地元の方も、監督ご自身も、そこの空気に馴染んでいったような…

小林:そうそう。言い忘れたけど、まず撮影中、家を借りようと思ったんですけど、地震のために、集落が半分になるというような混乱した状況でしたから、とても借りられる状況ではありませんでした。そこで「農家民宿」という、農業体験しながら泊まることができる宿が1件だけありまして、基本的にそこで寝泊りしていました。考えてみれば、変な輩が突然家を借りてウロウロするよりは、そこに泊まることで、よほど信用ができました。あそこで泊まっているならよそ者でも大丈夫ということで…あえて言っておきますが、「民宿里見(さとみ)」っていいます(笑)いい宿ですよ!

-「民宿里見」ですね! (笑)

風の波紋トークショー

小林:それで、そこの奧さんに「この辺りに昔話をするのが好きな人はいますか?」って聞いて紹介頂いたのが本編で茅(かや)刈りの場面に出演されてた南雲トメさんで…「歳とってやっとわかるけど、若い時は『嫌だ』ばっかりだった。」ってありましたけど(笑)そのトメさんに「実は、里美から紹介されて来た者なんですけど。」って言ったら「ああ、そうかい」って言って、その後スタッフも遊びにいって、蕨(わらび)や薇(ぜんまい)の話を聞く中で、不思議なことが起こりました。「茅をどこで取ってたんです?」と聞いたら…偶然ですけど木暮さんたちが茅を刈ってる場所と同じだったんです!それで僕は、その茅場でトメさんに登場してもらった後、茅刈りをする木暮さんたちがすーっと浮かぶように重ねられると思ったんですね。本当に場所が一緒なんです。

-そうだったんですね!

小林:トメさん、とっても話が上手でしょ?本当に魅力的で。今もお元気で、草刈りや野菜をつくったり。仲良くさせていただいてます。

風の波紋トークショー

-ありがとうございます。映画は映像と音が大変臨場感がありますし、出てくる料理もものすごく美味しそうですし、私が雪国に住んだことがないせいか、暗いトンネルから雪景色が広がるシーンは印象的でした。ことばで印象的だったのが天野季子(ときこ)さんの「この村の人たちは何があっても笑っている。家族じゃないのに1人にさせないんです」っていうところですね!村なので、家と家の距離が離れていますけど人と人の距離は、都会と比べるとずっと密接だと感じました。

小林:そこが村のいいところでも、悪いところでもあるんでしょうけど、天野さんは、埼玉の団地のようなところで生まれ育って、その後縁があって向こう(十日町)に行く機会があったんですけど、彼女の言葉を借りると「閉じこもりがちな自分をこじあけてくれた」って言ってましたね。そういう付き合いがあるのか!という感じですね。だから季子さんと冬話(とわ)ちゃんは、もはや村の子どもなんです(笑)

本編で、長作(倉重徳次郎)さんの家がつぶれていく場面がありますけど、そのシーンは当時長作さんたちに見せることができなかったんです。そして渋谷で完成披露を行った時にたまたま長男の方が関東にいらっしゃったので観に来ていただき、名刺までいただいたんですが、当日は観てすぐお帰りになられたので「どうだったのかな?」って思ったんですけど、後日長い手紙が届きまして、家を壊すことになったが、一部でも残して墓参りに来たときお茶でも飲んで田んぼを眺められたらいいんじゃないかと考えていたそうです。家を潰すには助成金が出るので、早くその手続きを長男にしてほしいと長作さんたちが言っていたのを聞いているものですから、はじめて長男の方の気持ちがわかりました。結果的には、一部を残しても除雪で村の人たちに迷惑をかけるからということで、全部更地になりました。
また、映画の中で「一人にしないでくれる、一人にさせない」という季子さんの言葉がでてきますが、長男の方はその言葉をえらく気に入って、「この言葉はまさしく豪雪地域で育った私たちのDNAです」とも書いてありました。そういうことで、今でも長男の方ともお付き合いがございます。良かったなと思いますね。

※この続きは、後半の記事に続きます(下画像をクリック)。
風の波紋トークショー

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